2013年02月25日

「中国屈指の名将」楽毅

管仲の記事でも

述べましたが、三国志で有名な諸葛亮孔明は自らを

管仲・楽毅」に
なぞらえていたと言います。

今回はその楽毅の話し。

楽毅は燕という国で活躍した将軍です。

まず、楽毅が来る前の燕についてざっくり説明します。

・燕の隣国に斉という強国があった。(孟嘗君がいる国です。)
・燕で内乱が起き、斉からヘルプしましょうか?と誘いがあったので燕の王子は斉に助けを求めた。
・斉が燕に乱入してきて、内乱を押さえてくれるがそのまま2年間、燕は斉の支配下にされる。
・2年後、王子は昭王として即位する。(斉に逆らわないという条件付きで)
・実は、燕の内乱の黒幕は斉だったと判明し昭王は復讐を決意する。

上記の事情から昭王は国の再興を始め、優秀な人材を求める方法を郭隗という人物に

尋ねた。

昭王「斉に復讐する為に有能な人材が欲しい、どうやって集めればいい?」

郭隗「まず私を厚遇してください」

昭王「なんで?」

郭隗「郭隗があんなに厚遇されるなら俺もかなりいい待遇受けれるかもと思った人達が集まりますよ」

昭王「なるほど」

というわけで郭隗の為に豪邸を立てて優遇したところ

各地から優秀な人材が我先にと集まってきました。

これが「隗より始めよ」の語源です。

当時既に各国から評判高かった楽毅もこの時に燕にきました。

昭王は楽毅が来た事に大喜びし、厚遇しました。

燕が国を復興し、人材も揃ってきた頃、斉は強国である事を調子にのり

周辺諸国に度々出兵してちょっかいを出し、周辺諸国から恨みを買っていました。

そこで楽毅は斉に恨みがある周辺諸国をまとめあげて連合軍を作り

それを指揮して斉と戦い打ち破りました。諸国はここで満足して引き上げましたが

楽毅はそのまま斉の領土に攻め込み、斉の首都を陥落させ

巧妙な作戦と指揮で次々と城を陥落させ、楽毅が来るという報せを受けただけで

震え上がって戦いもせずに降伏する城もあり結果的にわずか半年で70城以上もの城を落とし

斉の城が残り2城というところまで追いつめました。

昭王は復讐が果たせたと喜び、楽毅に領土を与えました。

当時は領土を貰えるのは王の親類までですので、これは破格な待遇といえます。

ここまでは順調でしたが、残り2城が頑強に抵抗している間に

昭王は病死してしまいます。

跡を継いだ恵王は放蕩息子で楽毅とはあまり仲がよくなかったので

そこを斉に付け込まれて楽毅が独立しようとしているという噂を立てられます。

恵王はそれを信じてしまい、楽毅は更迭され新しい将軍が派遣されます。

楽毅は汚名を着せられて殺される可能性もあるので他国に亡命しました。

斉は楽毅がいなくなった今こそ反撃のチャンスとばかりに燕軍に奇襲をかけて打ち破り

楽毅が攻略した70城あまりの城を取り返します。

恵王は震え上がり、この上無実で更迭してしまった楽毅が恨んで攻めてきたら燕が滅びて

しまうと思い、楽毅に手紙を出しました。

恵王「楽毅将軍を更迭したというのは誤解だよ。長い間戦場で頑張ってくれてたから休ませようとして
他の将軍を派遣したんだよ。それなのに君は誤解して他国に亡命しちゃったけど燕から受けた恩忘れ
てないよね?(恨んで攻めてこないでください;;)」

楽毅「私は昭王に大変お世話になりました。私が無実の罪を着せられて罰を受けるような事があれば、私を信頼してくれた昭王の名に傷がつく事になります。だから亡命したのです。私は昭王を尊敬していましたし、恩を忘れた事などありません。無実の罪を着せられたからといって私があなたの国に攻め込むことはありませんよ」

恵王は楽毅からの返事を受け取り、自分はなんという愚かな事をしてしまったのだと反省し

彼の子供を重く取り立てたといいます。

また、裏切りや謀略などが横行していたこの時代にあって

忠節を尽くした楽毅のこの手紙は人々の心を打ち

後世の人達も楽毅を手本にしたと言われています。


posted by 免堂九斎 at 11:53| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月24日

「大器晩成の典型」文公(重耳)

大器晩成という言葉はよく聞きますが

まさにそれを体現した方です。

今回は重耳という名前で説明させてもらいます。

重耳は晋という国の王子の一人として生まれました。

優秀な兄弟が多かったのですが、王に寵愛されていた驪姫という姫が

息子を王位に就かせる為に陰険な罠を用意して

重耳は左遷され、さらには命まで狙われたので他国に亡命します。

この時が40代前半、そこから亡命生活が始まります。

では大雑把にエピソードを紹介

・色々な国を渡り歩き管仲の記事で出てきた斉の桓公にも世話になりますが
桓公が亡くなって跡目争いが起きた為、家来から脱出を進められます。
居心地が良かったのか斉を出て行くのを渋る重耳ですが
重耳が酒で酔いつぶれた際に家来達は無理矢理担いで斉を脱出します。
気がついた重耳は家来に激怒しました
重耳「ふざけんなお前ら大願成就しなかったら八つ裂きにして食ってやる」
家来「どうぞお好きに。その頃には私の肉食えたもんじゃないですから」
重耳「ぐぬぬ」

・楚という国にも世話になりましたが楚王が戯れにこんな事を言いました。
楚王「もし君が国に帰れたらなんか見返りくれんの?」
重耳「そうっすね。もしおたくと戦う事になったら三舎(軍隊が移動する3日分の距離)引いてあげますよ」
楚王「(なにその上から目線)」

逃亡生活を続けて19年、重耳が60代になってようやく

秦の国の援助を受けて母国の晋に帰還し、王になれました。

王になったあとは生意気な部下に支えられ国を上手く繁栄させ

覇者とよばれるようになります。

ちなみに上のエピソードで出た楚の国と実際に戦う事になるのですが

重耳は約束を守り、軍を三舎引かせました。

これが「三舎を避ける」の語源です。

人間最後まで諦めてはいけませんね。







posted by 免堂九斎 at 13:41| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月23日

「適材適所の鏡」孟嘗君

以前の記事で戦国四君の一人「信陵君」を

書きましたが、孟嘗君もその戦国四君の一人で

斉という国に仕た宰相です。管仲が亡くなってから約350年後くらいの話しでしょうか

孟嘗君は兄弟が40名ほどいたそうですが以下の

エピソードから家を継ぐ事になりました。

・5月5日生まれの子は身長が戸口の高さに達したら
父親を殺すという言い伝えがあり、母親は生まれた孟嘗君を
密かに匿い、成人した時に父親に会わせました。
父親は「なんで殺さなかった!」と言いましたが
孟嘗君は「戸口の高さに達して父親を殺すならば、戸口の高さを
物凄く高くすればいいんじゃないですか?」と答えました。
父親は反論できませんでした。

・父親は財をかなり溜め込んでいましたが、ある日孟嘗君が
父親に質問しました。
孟嘗君「孫の孫って何て言うんですか?」
父親「玄孫(やしゃご)だ。」
孟嘗君「では玄孫の孫は何て言うんでしょう?」
父親「・・・分からん」
孟嘗君「今、父上は莫大な富を築いていますが
名前が分からないような子孫にまでその富を残すつもりですか?」
父親「」
孟嘗君「それよりも今の富を有効に使い、人材を集めて国に貢献しませんか?」
父親「もうお前に任せるわ」
これ以降は孟嘗君が家を取り仕切るようになり
数多の個性を持った食客が来るようになりました。
そして父親は亡くなる時に後継者として孟嘗君を指名しました。

そんな訳で多数の食客を抱える孟嘗君の評判は高まっていくの

ですが、食客の中には盗みが得意なだけの人や物まねが得意な

だけの人もいました。

食客には高名な学者や剣客もいますので、なんでそんなやつらも

孟嘗君は養ってあげているんだろうと不満を抱えているものもいました。

ある時、孟嘗君が斉の使者として強国秦に行った時

孟嘗君が評判通り優秀であると知った

秦の重臣達は「孟嘗君を敵に回すと厄介なので殺しときましょう」と

秦王に提案し、秦王も賛成しかけていました。

孟嘗君は食客の情報網からそれを聞き、秦王の寵愛していた姫に使者を送りました。

孟嘗君「秦王に殺されそうなんで説得してくれませんか?」

姫「孟嘗君が持っている狐白裘(こはくきゅう)をくれたらいいわよ」

孟嘗君「分かりました(それ秦王に献上しちゃったわ)」

どうしようかと悩んでいたところ泥棒の食客が盗んできてくれました。

姫に狐白裘を渡したところ秦王を説得してくれました。

孟嘗君はそれを知り、また秦王の気が変わらない内に脱出します。

案の定、また重臣から説得された秦王は気が変わり孟嘗君に追手を出しました。

孟嘗君は既に逃亡を始め、夜中に関所まで着きましたが、商鞅の改革により

ルールが徹底していて関所は朝を告げる鶏の鳴き声がしないと開きません。

秦王の追手も迫っており、朝まで待つ余裕はありません。

そこで物真似が得意な食客が鶏の鳴き声をする事で周りの鶏も鳴き始め

門が開き、無事国に帰る事が出来ました。

これが鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の語源です。

この件で不満を持っていた学者の食客なども感心しました。

孟嘗君自信の能力とその多彩な才能を持った食客達の活躍により

斉国の力は上がっていきますが、国王は孟嘗君の力を恐れ

他国に追放してしまいます。

孟嘗君を失ったタイミングを見計らったかのように

名将・楽毅が5カ国の連合軍を率いて斉を滅亡寸前まで追い込みました。

斉の国王も亡くなり次代の王が即位した斉は孟嘗君を呼び戻しますが

間もなくして孟嘗君は病死しました。

信陵君もそうなんですが、戦国四君は能力がありながら

王に恵まれていない人が多いようです。





posted by 免堂九斎 at 14:21| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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