2013年02月22日

「完璧の語源になった男」藺相如(りんしょうじょ)

この方は語源の宝箱みたいな人物です。

趙という国に仕えた人物です。

ある時最強国家の秦から趙に国宝「和氏の壁」と15城を

交換しようと言われ、使者を出す事にしたのですが

その時に選ばれたのが藺相如。秦王は元々約束を守る気が

なかったのですが藺相如の勇気と機転で交渉自体中止して

和氏の壁を無事持って帰ってきました。壁を完うして帰る=完璧の語源

ちなみに恵文王は藺相如の葬儀の準備をしていたそうです。

このように外交の場で持ち前の胆力と機転で趙を支えて出世していきますが

戦場での功績で出世したわけではないので心よく思わない人もいました。

百戦錬磨の猛将である廉頗という将軍は「口だけ野郎が、いつか目に物見せてやる」

と周りに言っていて、藺相如の耳にもそれが入っており

藺相如は廉頗とは顔を合わせないように避けていました。

藺相如の家来は「ご主人様情けないっすわ」と言いましたが藺相如はこう言いました。

「この国の大黒柱である私と廉頗将軍が喧嘩したら共倒れになって秦が攻め込んでくるだろう

個人より国家を優先しているんだよ」

廉頗将軍よりさらに恐ろしい秦王と渡り合った藺相如だから言える言葉です。

この話しは廉頗の耳まで届き、廉頗は己を恥じて藺相如に謝罪し打ち解け合って

「お互いの為なら首を刎ねられても構わない」と呼び合う仲になりました。

これが刎頸の交わりの語源です。

晩年、趙の王が代替わりをし

秦が趙を攻めてきた際に廉頗が当初これに当たっていましたが

廉頗は年老いたので評判の高い若い将軍に防衛軍の指揮を替えさせよう

という案が出ました。病に侵されていた藺相如はこれを聞いて

病身の身体ながらも新王の元へ行き交代させる事に反対したといいます。

新王はこれを却下し、廉頗から若い将軍に替えました。

結果は趙軍の歴史の中でも群を抜く大敗を喫し

趙の国力は大きく低下してしまいます。

藺相如も病気は治らず間もなく病死し、

しばらくして廉頗は趙の国を出ます。

病身をおしてまで忠告をしにいった藺相如の事や

趙の国を出ていった廉頗の気持ちを考えると

無性に切なくなります。





posted by 免堂九斎 at 12:11| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月21日

「誰もが憧れた宰相」管仲

三国志で有名な諸葛亮孔明

彼は自らを「管仲・楽毅」になぞらえていたと

言います。

その二人の内、管仲の話になります。

管仲は斉の国の桓公という王に仕えて

斉の国を強国にし、桓公は覇者と呼ばれるようになりました。

ことわざに「衣食足りて礼節を知る」という言葉が

ありますが、これは彼が作ったとされている「管子」という

書物に出てくる「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」

という言葉が派生したのものだと言われています。

ようするに着るものや食べ物など最低限の生活の糧があってこそ

初めて礼節をわきまえることができるんだという事ですね。

彼の行った政策はまさにそんな感じで国を豊かにする事で

国を強くする。「富国強兵」を実践したものだといわれています。

明治時代のスローガンを紀元前の人物が行っていたわけです。

彼の前半生は生易しいものではなく、貧しい生活を送り

仕えていた主のライバルである桓公を暗殺するという任務に失敗し

捕まってしまい処刑される寸前というとこまでいきます。

ここで彼を庇ったのが親友である鮑叔という人物です。

桓公にとっては管仲は自分の命を狙ってた暗殺者ですし

管仲自身何かと評判はよくありませんでしたので

当初は渋りましたが

鮑叔は桓公に「国を保ちたいだけなら斬ってしまって構いません。

ただ、天下に覇を唱えたいなら管仲を登用するべきです。」と言いました。

これにより管仲は桓公に重用されて宰相となり

桓公は管仲の助言を素直に聞き、その才能が活かされて

斉は強国になっていくのです。

管仲は後に鮑叔の事について私を生んだ者は父母であるが

私の事を真に理解してくれているのは鮑叔であると述べています。

この二人の友情を「管鮑の交」と呼びます。

もっと具体的なエピソードがあるので興味のある方はググってみてください。

管仲は病に倒れた際

桓公お気に入りの側近3名について「重用してはいけませんよ」と遺言を残し

死去します。

桓公はその遺言をガン無視してしまい桓公が病死した後に

葬儀はそっちのけで側近3名が主導した後継者争いが勃発し

斉の国力は低下してしまいます。

内乱が収まる頃には桓公の遺体は腐敗し、ウジが部屋の外に湧き出る

ほどだったとのことです。

いかに管仲の助言が的確で、存在が大きかったのかを改めて

知る事が出来るエピソードですね。

また、今の世の中、管仲のような人材がいたとしても

鮑叔のような人事がどれだけいるんでしょうかね。





posted by 免堂九斎 at 13:37| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

「法により出世し、法により死ぬ」商鞅

前回の信陵君の話で最強国家という言葉が

出てきましたが

今回はその最強国家である「秦」の基盤を作った

政治家の一人、商鞅という人物について

まず何をやった人物かといういと

当時蛮族の国と呼ばれていた秦の国で色々な法を

導入し強国にした

どんな法律か大雑把にあげると

・戸籍制度をつくった
・行政区分をつくった
・連座制度をつくった
・戦で功績を立てた人を賞して私闘した人を罰した
・戦功ないやつは貴族でも身分を剥奪
・物を量る単位を統一した
・太子(王子)の寵愛する側近ですらも罰した。

他にも色々ありますがこれくらいで

上記のような法を導入した事でモリモリと秦はマッチョになりました。

彼にまつわるエピソードで印象に残るのは

・秦で働く為に、当時の秦王孝王と面接した際に
 1度目は自然のまま統治する帝道を説き
 2度目はグレードを下げて徳で国を治める王道を説き
 3度目はさらにグレードを下げて武力などで制する覇道を説きました。
 1〜2度目までは孝王はつまらなくて寝てましたが
 3度目は興奮しまくりでした。

商鞅は面接後の感想で「ちょい残念だったわ」と語ったらしいです。

商鞅もできれば徳のある政治の道を進みたかったんでしょうかね?

なんか相手の好みに合わせていくというのは

石田三成の3杯の茶に通じるようなイベントですね。

また法を守らせる為にこんな事をしてます。

・南門に立てた木を北門に移動した人には大金をあげるよと布告し
 住民はそんな馬鹿なと最初の内は誰も動かさなかったんですが
 「じゃあ俺やってみるわ」と冗談半分で動かした住民に約束通り
 大金をあげました。褒美もちゃんと貰えるんだから法守らないと
 罰が怖いとなり、法に従うようになりました。
 
上記の逸話は約束を守るという意味でー移木の信(いぼくのしん)ー

という言葉として国語辞典にも載っています。

さて、そんな商鞅なんですが、スポンサーの孝王が病死してしまい

新しい王が即位します。ちょっと商鞅がやったことを思い出してください。

・太子(王子)の寵愛する側近ですらも罰した。

はい、私怨バリバリの新王でございます。

商鞅は罪を着せられ追われる身になりますが

自分で作った法が厳しくて徹底していて

関所を出て国外に逃げようとすれば「法律厳しくて手形ない人は無理」

と断られ

匿ってくれるように頼み込んでも「連座制こわすぎ無理」

と断られ、最後には捕まり車裂きの計に処せられます。

勿論、自分で作った「連座制」の為一族郎党処刑されました。

しかし秦は商鞅が作った法については廃止せずその後も続行し

他の国に先んじて強国となっていくのでした。

あまりにも冷徹で徹底した政治家だったので評判悪いですけど

商鞅は信念を持った政治家だったんだろうなと思います。

ちょっと出典を忘れてしまいましたが、古の政治家は

朝廷に参内する際は自分が殺される事を恐れ鎧を着込んで

参内する者もいたそうです。

命を懸けて国を改革する覚悟というのは素晴らしいものだと

私は思います。
posted by 免堂九斎 at 14:32| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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