2013年03月04日

「士は己を知るものの為に死す」予譲(よじょう)

春秋戦国時代は裏切が当たり前にある時代でした。
今回はそんな中、忠義を貫き通した男の話し。

予譲は晋国の智伯に仕えました。
当時の晋国は范文子の忠告が悪い意味で当たり
大国になりすぎていて内部分裂が始まり6人の重臣による権力争いが行われていました。

智伯はその6人の重臣の一人。
予譲は元々は別の重臣である范氏や中行氏に仕えていましたがあまり重用されず智伯の元へいきました。
智伯は権力欲も強く、あまり評判も良くなかったのですが予譲の才能を認め手厚く重用しました。
ちなみに智伯によって、范氏と中行氏は亡ぼされています。

予譲が智伯に仕えるようになってからしばらくして、智伯は別の重臣である趙襄子を討とうと考え
韓氏と魏氏に援軍を出すよう求めて趙襄子を攻撃します。戦いは3年にも及びましたが
元々権力欲が強く評判が良くなかった智伯の欠点を趙襄子は活用し韓氏と魏氏に使者を出しました。
趙襄子「うちが亡ぼされたら今度はおたくらだよ」
韓氏・魏氏「なんだってー!!」
趙襄子「権力欲ものすごいじゃん彼、それより協力して智伯倒して領土山分けしましょうや」
韓氏・魏氏「そうだね」
というわけで、韓氏と魏氏は趙襄子に寝返り形成は逆転、智伯は戦いに負けて討ち死にし、
予譲は命からがら山に逃げ延びました。

余談ですが趙襄子は相当、智伯に腹がすえかねていたのか智伯の頭蓋骨に漆を塗って
盃にしたそうです。

予譲は趙襄子の屋敷の便所の壁塗りに扮して暗殺する機会を狙いますが
趙襄子にばれてしまい、捕まってしまいます。
しかし、趙襄子は「もう主も死んでるのに見事な忠義心だわ」といって予譲を解放しました。

予譲は次に顔に漆を塗り、炭を飲んで喉を潰して変装し乞食になり機会を伺いました。
街で道すがら妻に会いましたが、妻も気付かなかったといいます。
事情を知っている予譲の友人は彼にこう聞きました。
友人「君くらいの才能があれば、趙襄子の家来に取り立ててもらえるだろう。家来にさえなればいつでも
暗殺できる機会があるじゃないか?なんでそんな遠回りな事するの」
予譲「臣下になりながら命を狙うのは二心を持って仕えることになる。それは恥ずべき行為だ。」
ただ殺すというだけではダメなのだという予譲の一本通った信念が伺えます。

後日、趙襄子が橋を通ろうとした際に馬が突如おののき、橋の下を調べさせたところ
予譲が潜んでいた為、再び予譲は趙襄子の前に引き出されました。
殺気に気付くとかとんでもない名馬ですね。

趙襄子は予譲に聞きました。
趙襄子「智伯は評判も悪いし、君は智伯に仕えるまでの間にも范氏とか中行氏に仕えてたでしょ?なんで
智伯にだけそんなに義理立てするの?」
予譲「范氏も中行氏もそれなりの待遇をしてくれただけでしたが、智伯様は私を手厚く重用してくれました。
士は己を知る者の為に死す。といいます。それなりの待遇にはそれなりの忠義で仕えましたので智伯様に対しては相応の報い方をしたまでです。」

趙襄子は予譲に感心しましたが、さすがに二度解放する事はできないのでその旨を予譲に伝えると
予譲「あなたは一度、私を解放してくれた事で、その器の大きさを天下に広める事ができ
私も名を残して死ぬ事ができます。ただ、あなたの衣服を頂戴して衣服だけでも斬らせて頂きたい。
それで気分を晴らします。」
と予譲が伝えると趙襄子は家来に服を渡し、家来は予譲に服を渡して予譲はそれを空中に投げて
3度斬りさき、礼を述べて自分の首に剣を突き立てた。

趙襄子はこれを見て涙を流してこれを褒めたと伝えられている。

予譲も見事な生き方ですが、それを受け入れた趙襄子も素晴らしい
男気というのは何かを感じさせてくれる話しです。
posted by 免堂九斎 at 11:57| Comment(1) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月03日

「内憂外患」范文子(はんぶんし)

内憂外患とは、国内に心配事があり、外国ともやっかいな問題が生じている状態をさします。

今回はその内憂外患の語源になった人の話し。

范文子は晋に仕えていた政治家です。

范文子の父は范武子と言い、晋の文公にも仕えていた名将で、「晋の歴史上最高の宰相」とも称されている人物です。

それほどの人物なのでやはり教育も厳しかったようで。

范文子がある日遅く帰宅すると范武子は何故こんなに遅くなったのか理由を聞きました。
范文子は「他国からの使者を接待してました。その使者は3つの謎かけを出しまして
周りの人は誰も答えられなかったので私が答えてやりましたよ(ドヤァ)」と答えました。

それを聞いた范武子は烈火の如く怒り

「周りの人が答えなかったのは目上の人に気を使って
わざと答えなかったんだよ。お前は空気を読まずに3回も周りを侮辱したようなもんだ!
もうこの家終わったわ!!」と言って范文子の冠がボコボコになるくらい叩き付けました。

しばらくして後、ある戦いの後に帰還が遅かったので范武子は范文子に遅くなった理由を尋ねました。
トラウマ再来です。

多分、質問した時点で范武子は殴りかかる用意してたんじゃないでしょうかね?(笑)

范文子はこう答えました「今回は他人が中心の戦いだったので、私に注目が集まらないよう彼が帰還するのを
待ってから帰宅しました。」相当ビビりながら言ったかもしれませんね。

范武子はそれを聞いて「おお、謙虚になったな。これなら我が家も安泰だわ」と答えました。
この件からも分かるように、范武子の教育もあり、范文子はかなり謙虚な性格になりました。

それからさらにしばらくして、晋の国は楚の国と戦う事になりました。
ただ、范文子は「晋は周辺諸国にライバルも減り、強国になりつつありますが、天下を取れるほどの人材が私も
含めてまだ揃っていません。楚とは戦うべきではありません。」

それを聞いた別の家臣は反論しました「楚には恥を欠かされた事もあるし、晋が強国になっているならば今こそ
戦うべき時だろう」

范文子はこう答えます「国の中に人材がいない状態で、ライバルの国がいなくなってしまっては内乱が起きる原因となります。今まで戦争してきたのはライバルが多すぎて、生き残る為にやむなく戦ってきたんです。
今は楚という外敵を作っておく事で国内の結束を保つべきです。」

あれれ、なんか現代でも内部の政治が腐敗している民衆の怒りを無理矢理洗脳教育で仮想敵国作り上げて
逸らしてる国ありませんか?

多分、いくら仮想敵国として祭り上げても絶対に反撃してこない日本は周辺諸国にとって都合のいい外敵なんでしょうね。まさに、范文子の言った事が実践されているといえます。
ちなみにこれが、「内憂外患」の語源です。

さて、また話しを戻しますが結局主戦論の方が大きかった為、范文子の助言は却下されます。
むしろ范文子の息子ですら主戦論を強調してるくらいです。
蛇足なんですが、息子が主戦論強調した際に范文子に范武子が乗り移りでもしたのでしょうか?
「小僧が偉そうに戦争を語るな!」と近くにあった戟を持って息子を追いかけ回したそうです。
やはり、血なんでしょうかね(笑)

戦争の結果はどうなったのか?といいますと晋国の勝利で終わります。
またこの戦争の結末が面白いんですが、楚の王が楚軍の司令官のところに明日の戦略について相談をしに
行ったところ、司令官が酔っぱらっていて、やる気を無くして撤退したというオチです。

戦争に勝って浮かれていた当時の晋国王の詞に范文子は「王も臣下も実力が伴っていない状態で勝ったので
浮かれずに気を引き締めてください」と痛烈な助言をしますが

相変わらず浮かれていた詞は後年、見かねた家臣によって暗殺されてしまいました。
国も人間もほどよいライバルというのは必要なんでしょうかね。
posted by 免堂九斎 at 13:53| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月02日

「秦国にとって最も有意義な買物」百里奚(ひゃくりけい)

題名を見て、買物って何?と思われるかもしれません。

何かというと題名の通り、百里奚は秦国に買われています。

しかも羊の皮5枚(五羖)である。この件から百里奚は五羖大夫と呼ばれています。

百里奚は秦国の穆公という王に仕えた宰相です。

何故買われたのか?という事から話しをしていきます。

百里奚は最初は許という場所に住んでいて仕官の為、斉に向かった。

ここで生涯の親友となる蹇叔と出会います。

斉で就職活動を行おうとする百里奚だが内乱の兆候を察知していた蹇叔に止められて

斉ではその後内乱が起き蹇叔の助言通りになる。(ちょうど管仲が桓公に仕えた頃でゴタゴタしている)

その後周という国で仕官しようとするがこれもまた蹇叔に止められる。

斉の例もあるので百里奚は素直に聞いて今度は虞という国に仕官しようとするが

また蹇叔に止められる。いい加減もう無職生活に嫌気が指していた百里奚は、

もう就職できないじゃんそれじゃ!!!と思ったのだろうか

蹇叔の助言を無視して虞に仕官する事になります。

虞の隣国には晋という国があり、晋国は虢(カク)という国を攻めようとしていました。

晋と虢の通り道に虞があった為、晋は虞に使いを出しました。

「謝礼出しますんで、おたくのちょっと通らせてもらいませんか?」

虞の臣下であった宮之奇は「唇亡びて歯寒しといいます。唇である虢の国が亡びたら

今度は歯である虞の国が亡ぼされますよ。通しちゃダメです。」と言い

百里奚もそれに乗っかり反対しますが、虞王は意見を却下して晋の軍を通してしまいます。

虢を亡ぼした晋軍はついでともいわんばかりに虞を亡ぼし、百里奚は晋の奴隷になりました。

ちなみにこれは「唇亡びて(破れてともいう)歯寒し」の語源になっています。

その後、晋から秦の国に姫が嫁ぐ事になり、姫の下僕の一人として百里奚は秦に送られます。

秦に来た百里奚の才能を見抜いた禽息という秦国の家臣は秦王に百里奚を推薦します。

秦王はあまり聞く耳を最初は持ちませんでした。百里奚は嫌気がさしたのか、秦を逃亡し

楚という国にいき、ここでも奴隷生活を送ります。

百里奚が逃げた事を知った禽息は床に頭を打ちつけながら秦王に彼を推薦し

頭を打ち付けすぎて死にます。

秦王は尋常じゃない推薦ぷりにビックリしたのか、百里奚を探させ

あまりにも豪華な待遇で迎えると他の国にも目をつけられてしまうと思ったので

羊の皮5枚で百里奚を買い取りました。

秦に来た百里奚は秦王と政治について話し、秦王は百里奚の能力の高さに敬服して

百里奚を重用します。もうこの時は70代だったそうです。

百里奚は徳のある政治をがけて、野蛮な国と言われていた秦国を大国にしました。

徳のあるエピソードの一つに、険悪な関係になっていた晋国が飢饉に見舞われ

秦に助けを求めてきた時、「天災はどこの国でも起こり、人民に罪はないので援助しましょう」と言い

食糧を援助しています。

また、国内を巡視する時は衛兵に武器を持たせず、衣類も質素であり人民に慕われていたと言います。

後に商鞅が秦の政治を取り仕切った際、豪華な服を着て、外に出る時は重装備させた衛兵を伴わせた事から

商鞅に対して百里奚と全く逆の行いをしていて災いを及ぼすと忠告した人がいると言われています。

百里奚はまた、親友であった蹇叔を秦王に推薦して登用してもらい、蹇叔とともにサポートしました。

百里奚は最終的に宰相にまでなりましたが、宰相になったころは90歳になっていたと言われています。

ある意味で晋の文公よりも大器晩成の人物だったと言えるでしょう。

百里奚が亡くなると秦の民衆は男女問わず泣き子供も歌声をあげなかったとされています。

わずか羊の5枚にしてこれだけの名臣を手に入れる事ができたというのは

秦国にとって最も有意義な買物だったという事でしょう。











posted by 免堂九斎 at 14:04| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。