2013年03月01日

「名将から大商人」范蠡(はんれい)

長い歴史において、活躍した名将が悲惨な末路を辿るケースは
少なくありません。

有能な家臣は君主にとって敵がいなくなった場合
最も怖い存在になり得るからです。

日本でも豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛は
秀吉に死ぬ間際まで警戒されていたと言います。

今回紹介する范蠡は後々の名将達が
模範とするような生き方をしました。

また、前回紹介した伍子胥はライバルのようなもので
後世では二人の生き方がよく対比されています。

范蠡は越の国王、勾践に仕えていました。
ある時、呉が越に攻め込んできました。

当時の呉は孫武や伍子胥の助力もあり
かなりの強国となっていて、正攻法では勝ち目がありません。

そこで、范蠡は奇策を使います。
処刑囚を集めて呉軍の目の前で罪状を告白して自害すれば
家族の生活は保証すると約束し、
処刑囚はそれに従い呉軍の前で自害していきました。

数列の処刑囚が目の前で自害しているのを
呆気にとられて見ていた呉軍でしたが
刃物を首に突きつけ囚人に扮していた越軍が
突如呉軍に襲いかかってきました。

呉軍は大混乱を起こして大敗し、
その戦争の最中に呉王・闔廬も矢傷を負い、それが元で亡くなりました。

新しい呉王として夫差が即位し越に復讐を誓います。
勾践は戦に勝った事に慢心し、
呉から再度攻められる前に先手を打つと言い
范蠡の反対を押し切り、
呉に戦いを挑み大敗して滅亡寸前まで追い込まれました。

范蠡は夫差に重用されている伯嚭に賄賂を送り、越を許してくれるよう工作しました。

越が呉に対して降伏するという事に対して
伍子胥は猛烈に反対し、勾践を殺すよう夫差に言いましたが
更に勾践が奴隷となるという事で夫差は納得し、越の降伏を許します。

勾践は1年ほど夫差の奴隷として働き、
范蠡を人質とする事で帰国を許され帰国します。

勾践の代わりに人質として呉に来た范蠡は、ここでも裏工作をします。
・絶世の美女と言われていた西施という女性を夫差に推薦し、骨抜きにさせる。
・伯嚭に賄賂を贈り、呉の大黒柱である伍子胥と夫差の関係を崩す

この間も勾践が帰国した越は内政に優れた文種という家臣の指導の元、
国力を回復させていきます。

やがて范蠡も帰国が許され越に戻り、
越は軍事の面でも回復をしていきました。

一方、越を下して自信を持った夫差は勢力拡大を計り、
周辺諸国に手を出していき引っ込みがつかなくなり、
徐々に国力は疲弊していきます。
また、范蠡の裏工作が功を奏して
伍子胥は夫差に自害を命じられて亡くなりました。

伍子胥もいなくなり、越に対しての警戒心が全くなくなっていた
呉は遠地の君主会議に行くため
呉の主力部隊を率いて首都を空っぽにして出かけてしまいます。

勾践はそれまでの間、何度か范蠡に「まだ攻めちゃダメ?」
「まだ早いです。」と止められていましたが
范蠡がGOサインを出したので出陣し呉の首都を攻めとります。

范蠡からまだ呉を滅ぼすほどの国力はないので一旦和睦するように言われ、
呉と和睦しますが数年後国力をさらに蓄えた越は
呉と再度戦いを始め、呉を打ち破りました。

呉王の夫差は一度越を見逃して上げた事を例に出して
降伏を申し出て勾践は認めそうになりますが
范蠡は伍子胥の例と実際の結末を引き合いにだして
断固拒否して使者を無理矢理追い返しました。

呉は滅亡し、越の国力は益々盤石になり、
勾践は覇者と呼ばれるようになりました。
范蠡は勾践が覇者となるのを見届けると引退する事を申し出ました。

勾践は当初は渋りましたがこれを認めて、范蠡は引退し、
斉の国に引越しました。

范蠡は国の復興に活躍した同僚の文種に手紙を送りました。

「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る 
(賢い兎が死んだら、兎を追わせていた犬も煮られてしまい、
 高いとこを飛んでる鳥が死んだら良い弓も倉にしまわれてしまう)
勾践様は苦楽の内、苦は一緒に出来る方だが、
楽は一緒に出来ないという人相が出ている。
貴方も煮られた犬になる前に身を隠しなさい」

文種はこの手紙を理解して病気を煩ったと言って
家に引き籠るようになりましたが
やがて勾践に謀反を疑われて殺されてしまいました。

一方、斉で暮らしていた范蠡は商売を初めて、大繁盛して富を作りました。
噂を聞いた斉の国王は、范蠡を宰相に迎えたいと使者を出しましたが
名が売れすぎるのは不幸を呼び、身を滅ぼすと考えた范蠡は、
蓄えた富を他人に分け与えて斉を去りました。

斉を去った范蠡は宋の国の領土である定陶という地で
名前を陶朱公と名乗りまた商売を初めました。

勿論また商売は繁盛し年老いた後は息子に譲り、
つつがない人生を送ったとの事です。

名将として名を馳せた将軍の中でここまで出処進退に優れ
幸福な晩年を過ごした人物というのもなかなかいないと思います。

范蠡はまさしく人生の処世術に優れた人物で、
その引き際は現在でも見習うところでしょう。











posted by 免堂九斎 at 10:27| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月28日

「復讐の鬼」伍子胥

「屍に鞭打つ」この言葉は何気なく使うことがありますが

元々は一人の男の壮絶な復讐劇が元になっています。

本日はその復讐劇の主役である伍子胥の話し。

伍子胥は元々楚の国に仕えていましたが

暴君といわれた平王によって一族郎党が無実の罪を着せられ

父親と兄が殺され、伍子胥は復讐を果たす為に呉の国に逃亡しました。

父は伍子胥が逃亡した事を知り「楚は国難にあいますよ」と言い首を刎ねられました。

呉国についた伍子胥は呉で王の座を狙っていた闔廬と親交を深め、クーデターを手伝い

無事王位に就かせる事で呉国の重臣となりました。

また、伍子胥は孫武の存在を知っていて、闔廬に孫武を登用するよう進言したといいます。

この進言を聞いて闔廬は孫武を招き、寵愛する美女二人を失いましたが(笑)孫武を将軍として登用します。

これにより、Mr兵法の孫武と楚を知り尽くしている伍子胥を手に入れた呉は

虎が翼を得たが如き勢いで国力を拡大していき、楚を打ち破って首都を攻略します。

しかし、楚を攻略した時には伍子胥の仇である平王はこの世を去り墓に入っており

楚の現国王も首都から逃亡していました。

怒りが収まらない伍子胥は部下に平王の墓を掘り出させて遺体を引きずり出し

屍を鞭で打たせました。これが冒頭の「屍に鞭打つ」の語源です。

伍子胥が楚にいた頃の親友だった申包胥は伍子胥に手紙を出しました。

申包胥「恨み骨髄なのはわかるけど、これあまりにもひどいわ」

伍子胥「もう俺にも時間がないんだわ。道理に反してもこれくらいしなきゃ何の為に逃亡したかわからんよ」

手紙を送ってみて改めて伍子胥の復讐心が燃え尽きていないのを知った申包胥は

秦国に援軍を求めに行きました。

秦王「可哀想だけど自業自得でしょ」

その返答を聞き、申包胥は7日7晩飲まず食わずで泣き続けたところ

秦王「平王ひどかったけど、こんだけ国思う家臣がいるならしょうがないな」

といって楚に援軍を送りました。涙は女の武器だと思ってたのですが男でも通用するんですね。

そんなわけで強国秦の助っ人があり、尚かつ本国の呉に越という国が攻め入ったという情報が入ったので

涙を飲んで楚から撤退する事になりました。

撤退後に呉王闔廬は、居留守を狙ってきた越がうざくなったので越に攻め込みましたが

越の名臣・范蠡の奇策に敗北し、重傷を負いました。

最早、余命も短いと悟った呉王闔廬は伍子胥に後継者について相談しました。

伍子胥「やはり長男である夫差様を王にするべきです。それ以外は内乱を起こす可能性があります。」

闔廬「やつは王の器ではないと思うんだが・・・」

伍子胥「足りない能力は家来が補うものです。序列を乱す事が一番国を乱す事になります。」

そんな流れで夫差が次の国王になりました。夫差は伍子胥に御礼を言い、国の半国を上げると

いいましたが、伍子胥は当然の事を言ったまでです。とこれを辞退しました。

闔廬は必ず越に復讐をするように夫差に遺言し、夫差もまた3年以内に必ずやりますと言いました。

国王になった夫差は毎日薪の上で寝る事で復讐心を燃えたぎらせ、伍子胥の手助けもあって

越を滅亡寸前まで追い込みました。

越王の勾践は奴隷になるので許してくださいと夫差に言ってきました。

伍子胥は反発しましたが、夫差はこれに満足して降伏を認めました。

勾践は降伏後、馬小屋で働かされていましたが徐々に夫差の警戒心も薄まり

越に帰国する事を許されて帰国しました。

勿論、伍子胥は警戒を解いていないので何度も忠告しますが

夫差に信頼されている重臣の伯嚭が越をフォローした為、無視されてしまいます。

ちなみに伯嚭は越から賄賂を何度も貰っています。

越に帰国した勾践は自身も農作業に加わり積極的に国力を回復させていきます。

また、呉から受けた屈辱を忘れないように自分の部屋に苦い胆をかけて毎日舐めました。

一方、越を破った事で調子に乗った夫差は伍子胥の忠告を無視して他国にも進出します。

他国にも進出してこれが最初は上手くいったので、伍子胥の意見をますます聞かなくなりました。

また、越から賄賂を貰っていた伯嚭は伍子胥の悪口を言うように越から頼まれていて

夫差にあることないこと伍子胥の悪口を言いました。

調子に乗りまくりの夫差はますます他国に出兵していきますが、年々軍事費は増大していき

税収もあがり、国は疲弊していきました。

ちなみにこの頃にはもう孫武は将軍を辞めて隠居しています。

伍子胥は助言も聞き入れられず、呉も終わると思ったので他国に使者として出向いた際に

息子を預けて帰国しました。本当はそのまま自分も亡命すればよかったのですが

呉国と命運を共にしようと思ったんでしょうね。

売国奴の伯嚭はこれ幸いとまた大げさにこれを夫差に報告し謀反を企んでいると言いました。

これを知った夫差は怒り狂い、自害しろと伍子胥に剣を送りました。

伍子胥はこう言い残しました
「夫差から半国くれると言われた時に断ってるのに今更謀反はないだろう。」
「俺が死んだ後は目を都の東門にかけておけ。越が東門から攻めて呉を滅ぼす様を見届けてやる。」
「それと俺の墓には梓(あずさ)を植えておけ、王の棺の材料にするためにな。」
そういって自害しました。

使者からこの言葉を聞いた夫差はますます怒り、死体を馬の革袋に入れさせて

長江に投げ捨てさせました。

伍子胥が亡くなって後、力を蓄えた越に攻められ呉は滅ぼされます。

越に攻められ追いつめられた夫差は自害する直前に家来にこういいました。

夫差「伍子胥には合わせる顔がない。私が死んだら布を顔にかぶせてくれ」

そういって自害すると、夫差の顔には布がかけられました。

ちなみに売国奴の伯嚭は降伏後に「悪臣の見本のような男」と言われて殺されました。

夫差が薪の上で寝たことを臥薪、勾践が胆を舐めたことを嘗胆といい

合わせて「臥薪嘗胆」という故事になっています。

最後まで苛烈に生きた伍子胥

今もなお、中国での人気は根強いといわれています。

posted by 免堂九斎 at 10:34| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月27日

「兵法書の大家」孫武

現代のビジネス書でもよく見かける「孫子の兵法」

武田信玄も孫子の一節をとって「風林火山」の旗を作っていますし

かの一説ではありますが、かのナポレオンも愛読していたと言われています。

2000年以上をゆうに過ぎている今であっても兵法書のバイブルとして

受継がれています。

孫子の兵法の作者は孫武・孫臏の二人がいると言われています。

また、孫臏は孫武の子孫だったといわれています。

三国志で有名な呉国の孫家は孫子の末裔と名乗っていたそうです。

ダイブ前説が長くなりましたが今回は孫武の話。

孫武は呉国の王・闔廬(こうりょ)に仕えた将軍です。

呉国に来る前から兵法書を既に書いていて、それを読んだ闔廬が

孫武を招いたそうです。

以下そのエピソード

闔廬「君の本素晴らしかったけど、宮中の婦人でちょっと実演してくんない?」

孫武はそう言われると、宮中の美女180人を集めてもらい二つの部隊に分けて
王様お気に入りの女性二人にそれぞれの部隊の隊長になってもらい装備をさせて
動き方などを教えました。

合図の太鼓を一度打ちましたが余興みたいなものだと思ったのか、女性達は笑うだけで
全く動きません。

孫武「これは私のミスです。教え方が下手でした。すみません。」

そう言って丁寧に教えなおしもう一度太鼓を打ちました。
しかし、女性達は相変わらず笑うだけで動きません。

孫武「しっかり教えたし、命令は徹底した。これは隊長の責任なので斬ります」

そう言って孫武は二人の隊長を斬ろうとしました。
それを見て青ざめた闔廬は慌てて言いました。

闔廬「ちょっとまって!君の才能は分かったから!その二人が死んだら俺生きていけないよ!!」

孫武「私は将軍として王から命を受けました。最善の結果をお届けする為、時には王のいうことを聞けない事もあると兵法書にも書きましたよね」

そういって孫武は闔廬の寵愛する二人の隊長を斬り殺し、新しい隊長を選び
太鼓をまた打ちました。すると、何という事でしょう。
さきほどまで笑うだけの女性達が、孫子の言われるがまま整然と動きました。

孫武「これで完全に指揮がとれるようになりましたよ」

闔廬「・・・もういいっすわ。」

孫武「王は兵法語るのは好きだけど、実践は得意ではないようですね。」

気分を悪くした闔廬でしたが、孫武の手腕に一目置き将軍に任命しました。

将軍になった孫武は、同じく呉にいた名将・伍子胥と共に活躍し

呉の国力を拡大する事に大いに貢献しました。

しかし後年、闔廬は孫武の意見を無視して越という国に攻め込み敗北をして

その時の矢傷が元で亡くなり、新たな王へ世代交代をしました。

どの国もそうですが、世代交代をすると重用する家来が変わるものです。

身の危険を察知したのでしょうか?孫武は辞表を提出して将軍を辞め

隠居したと伝えられています。

ちなみに孫武とともに活躍した伍子胥は後年罪を着せられ自害させられています。

戦争が上手いだけでなく人生の出処進退も鮮やかな人物だったと言えるでしょう。



posted by 免堂九斎 at 11:06| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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