2013年02月26日

「救国の英雄」田単

今回は斉という国に仕えた田単という人物についての話し。

前回の記事に書いた燕軍を率いる楽毅によって、首都を始めとして70城あまりの城を攻め落とされ

斉は残り2城となり、滅亡の危機に瀕していました。

田単は元々安平という城にいましたが、ここも燕の軍に攻められ

斉の残り2城の一つである即墨という城に逃げ込みました。

安平を逃げる時、馬車の車軸を補強するよう周りの人に忠告しましたが

周りの人は気にせずにそのまま逃げ、逃亡中に車軸が壊れて燕に捕まる人多数。

一方、田単の忠告を聞いた人達は無事逃げ切る事ができました。

2城の内の1城は斉の王様がいたので守りが固く、楽毅は

まず即墨を集中砲火する事にしました。

即墨を守っていた将軍は篭城しても勝ち目がないと思ったのか討ってでますが

楽毅に勝てるはずもなく戦死してしまいます。

将軍が亡くなり困り果てた城中では、田単の逃亡エピソードから只者じゃないから

田単に任せようという話しが出て田単は下級役人という低い地位でしたが

一気に将軍として盛り立てられました。ここから大雑把にエピソードを説明

・田単が将軍になった頃、燕の昭王が亡くなり次の恵王になりました。
 恵王は楽毅とあまり仲が良くない事を知った田単は、楽毅が独立を企てているから
 2城落とすのにも時間をかけているという噂を流し、恵王はこの噂を信じてしまい
 楽毅を更迭して騎劫という将軍を新たに派遣しました。
 楽毅は各国からの評判も良く、兵士にも慕われていましたのでこれによって燕軍の
 テンションはだいぶ落ちました。

・田単は次に城内にこんな布令を出しました。
 「食事する時は先祖を大切にする為に、庭にお供え物してね」
 布令に従い庭に供え物をしたところ、供え物を狙って鳥が大量に城中に降下してきました。
 オカルトを今以上に信じていた当時の人達にとって、燕軍にとっては不気味に見えたでしょうし
 斉軍にとっては、何か神が降りてくる前振れなのかとささやかれました。

・鳥の降下を見た田単はこういいました。
 田単「これは神が降りてくる前兆だわ。誰か神乗り移ったっぽい人いる?」
 兵士「そういえば神に乗り移られてるっぽいです(なわけねーだろw)」
 田単「壇上にあがってください。これからあなたの命令に従います。」
 壇上に迎えられてビビる兵士
 兵士「え?まじっすか。すんません、ちょっと冗」
 田単「分かってるよ。それ以上言ったら殺すぞ。ちょっとそのまま演技しろ」
 という具合にこれ以降の命令は神のお告げによる命令であるという事で
 元々身分が低かった田単の命令が厳密に守られるよう細工をした。

・次に田単は燕軍にまた噂を流した。
 「燕軍は捕虜の鼻を削ぐので捕まる前に降伏したほうがいい」
 「燕軍は先祖の墓を次々と掘り返しているので全部掘りかえして
  先祖の遺体を辱めている。たたりがあるかもしれないから早めに降伏したほうがいい」
 これを聞いた燕の将軍騎劫は
  騎劫「そんな噂が出ているならその通りの事したら早めに降伏してくれるな」と言い
 その通りの事を実践します。これを見た城内の軍は「斉軍絶対許さねぇ」と怒りに打震えました。

・次に田単は城壁の守りに年寄りや女子供をつかせて、降伏の使者を送りました。
 騎劫はこれを見て、斉軍はもう守る兵士もいなくて心が折れたんだなと信じきり
 数日間猶予やるから降伏の支度をしろと使者に伝えました。

返答を聞いた田単はようやく準備が整ったと言い、

夜中になってから角に剣を付けて尻尾に松明を付けた牛を門を空けて解き放ちました。

すっかり油断していた燕軍に暴れ狂う牛が突撃していき大混乱を起こしたところ

城内の斉軍も討って出て、溜め込んでいた怒りをぶちかましました。

これにより燕の将軍騎劫は討ち取られて燕軍は散々に打ち負かされ

勢いにのった斉軍は奪われた城を次々と取り返していき、楽毅が攻略した70城を

全て奪還したのでした。

この功績により田単は領土を与えられ

救国の英雄として田単の声望は高まりました。

この後の田単の話しはあまり伝わっていないのですが、趙という国の宰相になったそうです。

英雄としての田単の声望があまりにも高かった為、王様にとって危険な存在となり

斉を出ざるをえなくなったのかと思っています。

楽毅を更迭させるところから始まり、70城を取り返すまでの流れは

映画になってもいいくらいのエピソードですね。

ちなみに牛の尻尾に松明を付けて突入させるのを「火牛の計」といい

日本でも木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで使っています。






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2013年02月25日

「中国屈指の名将」楽毅

管仲の記事でも

述べましたが、三国志で有名な諸葛亮孔明は自らを

管仲・楽毅」に
なぞらえていたと言います。

今回はその楽毅の話し。

楽毅は燕という国で活躍した将軍です。

まず、楽毅が来る前の燕についてざっくり説明します。

・燕の隣国に斉という強国があった。(孟嘗君がいる国です。)
・燕で内乱が起き、斉からヘルプしましょうか?と誘いがあったので燕の王子は斉に助けを求めた。
・斉が燕に乱入してきて、内乱を押さえてくれるがそのまま2年間、燕は斉の支配下にされる。
・2年後、王子は昭王として即位する。(斉に逆らわないという条件付きで)
・実は、燕の内乱の黒幕は斉だったと判明し昭王は復讐を決意する。

上記の事情から昭王は国の再興を始め、優秀な人材を求める方法を郭隗という人物に

尋ねた。

昭王「斉に復讐する為に有能な人材が欲しい、どうやって集めればいい?」

郭隗「まず私を厚遇してください」

昭王「なんで?」

郭隗「郭隗があんなに厚遇されるなら俺もかなりいい待遇受けれるかもと思った人達が集まりますよ」

昭王「なるほど」

というわけで郭隗の為に豪邸を立てて優遇したところ

各地から優秀な人材が我先にと集まってきました。

これが「隗より始めよ」の語源です。

当時既に各国から評判高かった楽毅もこの時に燕にきました。

昭王は楽毅が来た事に大喜びし、厚遇しました。

燕が国を復興し、人材も揃ってきた頃、斉は強国である事を調子にのり

周辺諸国に度々出兵してちょっかいを出し、周辺諸国から恨みを買っていました。

そこで楽毅は斉に恨みがある周辺諸国をまとめあげて連合軍を作り

それを指揮して斉と戦い打ち破りました。諸国はここで満足して引き上げましたが

楽毅はそのまま斉の領土に攻め込み、斉の首都を陥落させ

巧妙な作戦と指揮で次々と城を陥落させ、楽毅が来るという報せを受けただけで

震え上がって戦いもせずに降伏する城もあり結果的にわずか半年で70城以上もの城を落とし

斉の城が残り2城というところまで追いつめました。

昭王は復讐が果たせたと喜び、楽毅に領土を与えました。

当時は領土を貰えるのは王の親類までですので、これは破格な待遇といえます。

ここまでは順調でしたが、残り2城が頑強に抵抗している間に

昭王は病死してしまいます。

跡を継いだ恵王は放蕩息子で楽毅とはあまり仲がよくなかったので

そこを斉に付け込まれて楽毅が独立しようとしているという噂を立てられます。

恵王はそれを信じてしまい、楽毅は更迭され新しい将軍が派遣されます。

楽毅は汚名を着せられて殺される可能性もあるので他国に亡命しました。

斉は楽毅がいなくなった今こそ反撃のチャンスとばかりに燕軍に奇襲をかけて打ち破り

楽毅が攻略した70城あまりの城を取り返します。

恵王は震え上がり、この上無実で更迭してしまった楽毅が恨んで攻めてきたら燕が滅びて

しまうと思い、楽毅に手紙を出しました。

恵王「楽毅将軍を更迭したというのは誤解だよ。長い間戦場で頑張ってくれてたから休ませようとして
他の将軍を派遣したんだよ。それなのに君は誤解して他国に亡命しちゃったけど燕から受けた恩忘れ
てないよね?(恨んで攻めてこないでください;;)」

楽毅「私は昭王に大変お世話になりました。私が無実の罪を着せられて罰を受けるような事があれば、私を信頼してくれた昭王の名に傷がつく事になります。だから亡命したのです。私は昭王を尊敬していましたし、恩を忘れた事などありません。無実の罪を着せられたからといって私があなたの国に攻め込むことはありませんよ」

恵王は楽毅からの返事を受け取り、自分はなんという愚かな事をしてしまったのだと反省し

彼の子供を重く取り立てたといいます。

また、裏切りや謀略などが横行していたこの時代にあって

忠節を尽くした楽毅のこの手紙は人々の心を打ち

後世の人達も楽毅を手本にしたと言われています。


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2013年02月24日

「大器晩成の典型」文公(重耳)

大器晩成という言葉はよく聞きますが

まさにそれを体現した方です。

今回は重耳という名前で説明させてもらいます。

重耳は晋という国の王子の一人として生まれました。

優秀な兄弟が多かったのですが、王に寵愛されていた驪姫という姫が

息子を王位に就かせる為に陰険な罠を用意して

重耳は左遷され、さらには命まで狙われたので他国に亡命します。

この時が40代前半、そこから亡命生活が始まります。

では大雑把にエピソードを紹介

・色々な国を渡り歩き管仲の記事で出てきた斉の桓公にも世話になりますが
桓公が亡くなって跡目争いが起きた為、家来から脱出を進められます。
居心地が良かったのか斉を出て行くのを渋る重耳ですが
重耳が酒で酔いつぶれた際に家来達は無理矢理担いで斉を脱出します。
気がついた重耳は家来に激怒しました
重耳「ふざけんなお前ら大願成就しなかったら八つ裂きにして食ってやる」
家来「どうぞお好きに。その頃には私の肉食えたもんじゃないですから」
重耳「ぐぬぬ」

・楚という国にも世話になりましたが楚王が戯れにこんな事を言いました。
楚王「もし君が国に帰れたらなんか見返りくれんの?」
重耳「そうっすね。もしおたくと戦う事になったら三舎(軍隊が移動する3日分の距離)引いてあげますよ」
楚王「(なにその上から目線)」

逃亡生活を続けて19年、重耳が60代になってようやく

秦の国の援助を受けて母国の晋に帰還し、王になれました。

王になったあとは生意気な部下に支えられ国を上手く繁栄させ

覇者とよばれるようになります。

ちなみに上のエピソードで出た楚の国と実際に戦う事になるのですが

重耳は約束を守り、軍を三舎引かせました。

これが「三舎を避ける」の語源です。

人間最後まで諦めてはいけませんね。







posted by 免堂九斎 at 13:41| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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