2013年02月23日

「適材適所の鏡」孟嘗君

以前の記事で戦国四君の一人「信陵君」を

書きましたが、孟嘗君もその戦国四君の一人で

斉という国に仕た宰相です。管仲が亡くなってから約350年後くらいの話しでしょうか

孟嘗君は兄弟が40名ほどいたそうですが以下の

エピソードから家を継ぐ事になりました。

・5月5日生まれの子は身長が戸口の高さに達したら
父親を殺すという言い伝えがあり、母親は生まれた孟嘗君を
密かに匿い、成人した時に父親に会わせました。
父親は「なんで殺さなかった!」と言いましたが
孟嘗君は「戸口の高さに達して父親を殺すならば、戸口の高さを
物凄く高くすればいいんじゃないですか?」と答えました。
父親は反論できませんでした。

・父親は財をかなり溜め込んでいましたが、ある日孟嘗君が
父親に質問しました。
孟嘗君「孫の孫って何て言うんですか?」
父親「玄孫(やしゃご)だ。」
孟嘗君「では玄孫の孫は何て言うんでしょう?」
父親「・・・分からん」
孟嘗君「今、父上は莫大な富を築いていますが
名前が分からないような子孫にまでその富を残すつもりですか?」
父親「」
孟嘗君「それよりも今の富を有効に使い、人材を集めて国に貢献しませんか?」
父親「もうお前に任せるわ」
これ以降は孟嘗君が家を取り仕切るようになり
数多の個性を持った食客が来るようになりました。
そして父親は亡くなる時に後継者として孟嘗君を指名しました。

そんな訳で多数の食客を抱える孟嘗君の評判は高まっていくの

ですが、食客の中には盗みが得意なだけの人や物まねが得意な

だけの人もいました。

食客には高名な学者や剣客もいますので、なんでそんなやつらも

孟嘗君は養ってあげているんだろうと不満を抱えているものもいました。

ある時、孟嘗君が斉の使者として強国秦に行った時

孟嘗君が評判通り優秀であると知った

秦の重臣達は「孟嘗君を敵に回すと厄介なので殺しときましょう」と

秦王に提案し、秦王も賛成しかけていました。

孟嘗君は食客の情報網からそれを聞き、秦王の寵愛していた姫に使者を送りました。

孟嘗君「秦王に殺されそうなんで説得してくれませんか?」

姫「孟嘗君が持っている狐白裘(こはくきゅう)をくれたらいいわよ」

孟嘗君「分かりました(それ秦王に献上しちゃったわ)」

どうしようかと悩んでいたところ泥棒の食客が盗んできてくれました。

姫に狐白裘を渡したところ秦王を説得してくれました。

孟嘗君はそれを知り、また秦王の気が変わらない内に脱出します。

案の定、また重臣から説得された秦王は気が変わり孟嘗君に追手を出しました。

孟嘗君は既に逃亡を始め、夜中に関所まで着きましたが、商鞅の改革により

ルールが徹底していて関所は朝を告げる鶏の鳴き声がしないと開きません。

秦王の追手も迫っており、朝まで待つ余裕はありません。

そこで物真似が得意な食客が鶏の鳴き声をする事で周りの鶏も鳴き始め

門が開き、無事国に帰る事が出来ました。

これが鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の語源です。

この件で不満を持っていた学者の食客なども感心しました。

孟嘗君自信の能力とその多彩な才能を持った食客達の活躍により

斉国の力は上がっていきますが、国王は孟嘗君の力を恐れ

他国に追放してしまいます。

孟嘗君を失ったタイミングを見計らったかのように

名将・楽毅が5カ国の連合軍を率いて斉を滅亡寸前まで追い込みました。

斉の国王も亡くなり次代の王が即位した斉は孟嘗君を呼び戻しますが

間もなくして孟嘗君は病死しました。

信陵君もそうなんですが、戦国四君は能力がありながら

王に恵まれていない人が多いようです。





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2013年02月22日

「完璧の語源になった男」藺相如(りんしょうじょ)

この方は語源の宝箱みたいな人物です。

趙という国に仕えた人物です。

ある時最強国家の秦から趙に国宝「和氏の壁」と15城を

交換しようと言われ、使者を出す事にしたのですが

その時に選ばれたのが藺相如。秦王は元々約束を守る気が

なかったのですが藺相如の勇気と機転で交渉自体中止して

和氏の壁を無事持って帰ってきました。壁を完うして帰る=完璧の語源

ちなみに恵文王は藺相如の葬儀の準備をしていたそうです。

このように外交の場で持ち前の胆力と機転で趙を支えて出世していきますが

戦場での功績で出世したわけではないので心よく思わない人もいました。

百戦錬磨の猛将である廉頗という将軍は「口だけ野郎が、いつか目に物見せてやる」

と周りに言っていて、藺相如の耳にもそれが入っており

藺相如は廉頗とは顔を合わせないように避けていました。

藺相如の家来は「ご主人様情けないっすわ」と言いましたが藺相如はこう言いました。

「この国の大黒柱である私と廉頗将軍が喧嘩したら共倒れになって秦が攻め込んでくるだろう

個人より国家を優先しているんだよ」

廉頗将軍よりさらに恐ろしい秦王と渡り合った藺相如だから言える言葉です。

この話しは廉頗の耳まで届き、廉頗は己を恥じて藺相如に謝罪し打ち解け合って

「お互いの為なら首を刎ねられても構わない」と呼び合う仲になりました。

これが刎頸の交わりの語源です。

晩年、趙の王が代替わりをし

秦が趙を攻めてきた際に廉頗が当初これに当たっていましたが

廉頗は年老いたので評判の高い若い将軍に防衛軍の指揮を替えさせよう

という案が出ました。病に侵されていた藺相如はこれを聞いて

病身の身体ながらも新王の元へ行き交代させる事に反対したといいます。

新王はこれを却下し、廉頗から若い将軍に替えました。

結果は趙軍の歴史の中でも群を抜く大敗を喫し

趙の国力は大きく低下してしまいます。

藺相如も病気は治らず間もなく病死し、

しばらくして廉頗は趙の国を出ます。

病身をおしてまで忠告をしにいった藺相如の事や

趙の国を出ていった廉頗の気持ちを考えると

無性に切なくなります。





posted by 免堂九斎 at 12:11| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月21日

「誰もが憧れた宰相」管仲

三国志で有名な諸葛亮孔明

彼は自らを「管仲・楽毅」になぞらえていたと

言います。

その二人の内、管仲の話になります。

管仲は斉の国の桓公という王に仕えて

斉の国を強国にし、桓公は覇者と呼ばれるようになりました。

ことわざに「衣食足りて礼節を知る」という言葉が

ありますが、これは彼が作ったとされている「管子」という

書物に出てくる「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」

という言葉が派生したのものだと言われています。

ようするに着るものや食べ物など最低限の生活の糧があってこそ

初めて礼節をわきまえることができるんだという事ですね。

彼の行った政策はまさにそんな感じで国を豊かにする事で

国を強くする。「富国強兵」を実践したものだといわれています。

明治時代のスローガンを紀元前の人物が行っていたわけです。

彼の前半生は生易しいものではなく、貧しい生活を送り

仕えていた主のライバルである桓公を暗殺するという任務に失敗し

捕まってしまい処刑される寸前というとこまでいきます。

ここで彼を庇ったのが親友である鮑叔という人物です。

桓公にとっては管仲は自分の命を狙ってた暗殺者ですし

管仲自身何かと評判はよくありませんでしたので

当初は渋りましたが

鮑叔は桓公に「国を保ちたいだけなら斬ってしまって構いません。

ただ、天下に覇を唱えたいなら管仲を登用するべきです。」と言いました。

これにより管仲は桓公に重用されて宰相となり

桓公は管仲の助言を素直に聞き、その才能が活かされて

斉は強国になっていくのです。

管仲は後に鮑叔の事について私を生んだ者は父母であるが

私の事を真に理解してくれているのは鮑叔であると述べています。

この二人の友情を「管鮑の交」と呼びます。

もっと具体的なエピソードがあるので興味のある方はググってみてください。

管仲は病に倒れた際

桓公お気に入りの側近3名について「重用してはいけませんよ」と遺言を残し

死去します。

桓公はその遺言をガン無視してしまい桓公が病死した後に

葬儀はそっちのけで側近3名が主導した後継者争いが勃発し

斉の国力は低下してしまいます。

内乱が収まる頃には桓公の遺体は腐敗し、ウジが部屋の外に湧き出る

ほどだったとのことです。

いかに管仲の助言が的確で、存在が大きかったのかを改めて

知る事が出来るエピソードですね。

また、今の世の中、管仲のような人材がいたとしても

鮑叔のような人事がどれだけいるんでしょうかね。





posted by 免堂九斎 at 13:37| Comment(0) | 中国 春秋戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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